以下の記事を読みました。特に感銘を受けた部分。
けれどぼくは、ぼくがいくら泣こうが、本当に自殺しようが、その人たちが何も感じないことを知っている。いじめられた子が苦しんで、泣いて、死んでも、いじめた子は変わらず明日も笑ってご飯を食べる。いじめは、いじめた人には「どうでもいいこと」なんです。
いじめを止めるのは、残念ながらいじめられた子の死ではありません。その子が死んでも、また他の子でいじめは続く。いじめは、いじめる子に想像力(そうぞうりょく)を持ってもらうことでしか止まらない。
http://www.asahi.com/national/update/0816/TKY201208160557.html
自分が12歳の時に、こんなことを考えるレベルに達していたのだろうか…と思いました。多分、達してなかったと思います。
人生経験というのは、過ごした時間だけじゃあなくて、考えた時間による…というのもあるのじゃないかな。非常にアレな言い方だけど、60歳を越えても、彼女の域に到達してない人もいると思う。勿論、人の考えで、何が正しいとかは、色々と考えないといけないけど。
いじめは、受けた側と、行う側での捉え方とか、非常に的を得ていると思いました。ちょっと、ネットのことで考えると、ダイアリに否定的なコメントを書き捨てた人は、二度と見ない…ということはできても、ダイアラーには、ずっと残る…そういうことも連想しました。
これは、彼女がツイッターでも、有名だからかな?と思いますが…。
HTBCでも指摘がありますが、いじめに関するコラムが、おそらく「いじめている側」には伝わない、というのはあると思います。しかし、そのボーダーにいる人や、加害者であっても、目を覚ます人がいて、引き戻すことができる、その可能性はある…と考えると。
芸能人や有名人のコラムには、一定の効果と意味があるのじゃないか?と思いました。多くの人に読んで貰いたい記事だと思いました。