明日に備えて、「ちょっと出かけてくる」みたいな記事を書こうと思って、とある増田記事を引用しようと思ったのだけど、確認すると追記がついていて、結果として、引用はやめようと思った。
ブログの公共性とは何なのか?
コンテンツをジャンルごとに独立させるのは、公共性のためだ。
経済評と昆虫飼育と軍事演習がひとまとめになっているようなブログでは、
読者に余計な閲覧コストを強いてしまうからだ。
これはプロアマ関係ない。公共意識が無いのは、人間の欠陥だ。
有名人が書いたつまらない記事
この部分が追記されていた内容で、考えさせられる部分がある。まぁ、カテゴリとか、タグクラウドとか色々あるけれど、ブログごとに内容が特化している方が、閲覧者に優しく、公共性はあるかも知れない。
しかし、多くの場合、ブログ記事はランディングページの役割を果たして、その先の記事を読まれるかは、結構、ちらほらしている。と思う。勿論、公共性(笑)が高いほうが、カテゴリ等々で別記事への誘導が優しいだろう。有益な体験かも知れない。
しかし、一見して、何のブログか分からない場合は、バックボタンで検索空間に帰る…という自由もある。ブログで収益をあげていきたいなら、公共性を高める必要もあると思うけど、フリーでやっているなら、自由で雑多に書いてよいはずで、『人間の欠陥』は、少々、苛烈に思える。
ここからは、Disである。
しかし、件の増田記事は何歳の人が書いたのかな?アノニマスに年齢を問うのはお角違いだとは思うけど…。
10代なら。
過渡期なのかも知れないが、Web論を持っているのはエライと思う。
20代なら。
まだ過渡期かも知れない。でもエライとは思わないし、次のステージに進んで欲しいと思う。
30代なら。
かなり痛い。これから変化する可能性もなさそうなので痛い。
40代なら。
ノーコメント。
公共性を損なうとは?
インターネットの検索空間においての公共性はある程度、検索エンジンの側で整備されている。はず。ツイッター、はてブ画面、はてなトップエントリ、などなど色んなところで、注目エントリが現れるのは、個々で調整するしかない。
「見ない」というのが個人で出来ることだし、もしも、ブログジャンル、カテゴリを整理しないままにブログで人気が出ている人が、『公共性』という観点で雑音になっているなら、そこは自然と淘汰されていくのだと思う。
終わります。
ブログポータルの定める規約や、倫理などに関する部分、制約がない訳じゃないし「何を書いても自由」という訳じゃあないけど、人のブログに対して「かくあるべき」と言いたくなる気持ちというのは、どういうモノなのだろうか?
私は、頑張ってもホットエントリに入れない…ような気持ちの先に憐憫のようなモノを感じていたのだけど、それとも違うように思える。
彼は何かと戦っている。だけど、それが何かは分からない。