以下の記事を読みました。
私の見るところ、「いじめ」というのは教育の失敗ではなく、むしろ教育の成果です。
子供たちがお互いの成長を相互に支援しあうというマインドをもつことを、学校教育はもう求めていません。むしろ、子供たちを競争させ、能力に応じて、格付けを行い、高い評点を得た子供には報償を与え、低い評点をつけられた子供には罰を与えるという「人参と鞭」戦略を無批判に採用してる。
であれば、子供たちにとって級友たちは潜在的には「敵」です。同学齢集団の中での相対的な優劣が、成績評価でも、進学でも、就職でも、すべての競争にかかわってくるわけですから。
いじめについて (内田樹の研究室)
この辺りを読んで、さすが、内田先生、「社会の構造」や「あり方」を利用した、遠回りなディスだな…とか思ったのですが、はてブ画面を読んでみて、私は、彼のことを良く知らなかったのだな。と思いました。
以下が「はてブ」の画面。
ここに集まっているコメントを読んで、「妄信はよくないな」と思いました。多分、社会全体で見るなら、「競争社会」とかも関係あると思うのですが、滋賀県の個別の例で考えるなら、「競争から引きずり下ろすために雀の死骸を口に含ませるか?」と、単純に思います。中学校までは、学校のヒーローになるのは、スポーツとか、足の速さとか、体力的な部分(私の頃はそうでした)が尊重されますが、結局、社会全体で見れば「勉強」でしょう。スポーツで超一流になれる人は、ほんの一握りでしょうから。
もしも、「競争社会」が原因の背景となっているなら、「頭の良い」人がターゲットになりそうなモノですが、滋賀県の加害者達の学習状況は知らないですが、「勉強の成績」という絶対的な評価には絶望している、もしくは、見ないようにしている鬱憤のはけ口として、「いじめ」が行われているように思えます。実際、いじめ加害者達の成績の具合を知らないので、自分が、中学生の頃の印象でしか語れないのですが。
ただ、加害者達が、「本当は悪いこと」と思いながら、いじめをしているとも思えないので、いじめを「良し」とする思考的背景には、内田先生の言う部分。
「いじめ」は個人の邪悪さや暴力性だけに起因するのではありません。それも大きな原因ですが、それ以上に、「いじめることはよいことだ」というイデオロギーがすでに学校に入り込んでいるから起きているのです。
に一理あるのかな?と思いました。そもそも、内田先生は、引用部分に『個人の邪悪さや暴力性だけに』と書かれていて、『だけ』は、それ以外の要因を述べている訳で…そもそも、視点が違うのかな?と思いました。