ジャンプ部屋ブログ

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ハンディキャップを自分のハンディキャップと比較して考える愚かさ。禁煙155日目。


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ハンディキャップを自分のハンディキャップと比較して考える愚かさ。

こんなことを書くと、非常にダイアリが炎上するかも知れないですが、オリンピックで義足の選手が活躍されているのを見て、私はある一面で怖くなりました。

もしも、私が、両足を失うようなことになった時、「オリンピックに出ている人がいる!がんばれ!」みたいな事を言われるのじゃないかな?とか。勿論、事故にあわないと、そうなることになる可能性は、ほとんどないと思うのですが…。だけど、その言葉の中の暴力性、残酷性というのは、私が感じているだけなのだろうか?

岡山で法事に帰った時に、正直、色々とあって、親戚関係は最悪なことになっている感じがします。その詳細を書く訳にはいかないのですが…その中で感じたのは、人間性の部分とか、生き方の部分とか、負い目の部分とかに、踏み込むのはよくない…ということでした。

それが、20代、30代くらいの間柄であれば、話し合うことで解決できるかも知れませんが、「もう無理」なことは、同情、もしくは、尊重して、「変えられないモノ」として、考えないといけないのじゃないか?と思いました。

私のおじさんは、ハンディキャップという意味では、「障害者の認定」とかには到らないと思うのですが、コンプレックスと、負い目を受けていた部分があったそうです。私の母親が言うには、その部分に関して、祖母(つまりおじさんの母親)が、全く味方になってくれなくて、まるでデキモノのように扱っていたそうです。私は、おじさんの少年時代を知らないのですが、それが、負い目となり、もう、60歳を越えられなかったモノであるならば、そこは否定してはならない、と思いました。

その話を聞いた時に、私の父親は、「ハンディキャップのある人(障害者)でも頑張っている人がいる。」とか、「自分もハンディはあったけど乗り越えた。」とか、言います。コンプレックスを比較することは、本来的には出来ないと思うのですが、長袖をすれば隠せること、隠せないこと、あるいは、それに対して母親からどのように扱われたか?私も、父の知らない部分はあるのですが…少なくとも、息子として、そういうハンディがあったことは知りませんでした。見ても分からないことでした。

見て分かることと、分からないことと、隠せることを並列で語ることに、自己憐憫と、恐ろしい暴力性を感じました。心の問題であれば、心意気一つで解決できる、自分は乗り越えた、乗り切った人がいる、それが彼の弁だと思うのですが、頑張った人の影には、頑張れなかった人が倍以上いると思います。

普段なら、聞き流す部分なのですが、どうしても私の問題意識と、それを正論のように語る様に腹がたったので、「その考えは間違っている、おじさんが可哀想だ、いじめと同じ発想をしている」と訴えました。

そうすると、父親は激怒して、「人と人が関わった以上、その人の人生がよくなる方法を考えるのが何が悪いのか!」と正論を言いました。私は、その正論にも暴力性を感じます。これは、想像ですが、某居酒屋チェーンの会長さんは、こんな人なんじゃないかな?と思いました。

結局のところ、人の心、弱み、を理解できず、自分の強さを世の中の平均と考え(悦になり)、「頑張れないこと」を強要する暴力性というのは、きっと、理解出来ない人もいるのでしょう。それが、自分の父親で、手話通訳とか、手話サークルとかをやって、手話ニュースを見たりして、障害者等々のことに関心がある人の中にも、そのような思想の人がいるのだな…と思いました。

おそらく、こういう衝突は、もっと若い頃にしておくべきなのでしょう。衝突するのもしんどいのですが、ただ、この問題だけは、見過ごすことが出来なかったので、最終的に、相手の血管がブチ切れても、私の前で話題になる度にDisり続けようと思いました。

僕は悪くない。

禁煙155日目。

吸いませんでした。しかし、副流煙のせいで、喘息が出て、ボコボコになりました。これが、喫煙をしていた咎ですね。本当に、吸いませんでした。